多くの人は制限された環境下に置かれると、
その中でなんとかやりくりしようとする。
その制限された中でささやかな楽しみを見出だし、
『この状況も悪くない』と順応しようとする者も多いのだ。
一休さんが和尚さんに叱られて柱に縛りつけられている時に、
涙でネズミの絵を描いたのが良い例だ。
また、学校指定の制服やジャージを折り込んで着たり、
うわばきにラクガキして自分流にアレンジしたりするのも良い例だ。
制限された環境でも人は遊ぼうとする。
いや、それ以前に制限された環境だからこそ、それらが遊びとなりうるのだとも言える。
たとえば、制服やジャージなどに学校指定という拘束が無くなった場合、
多くの人は服を折り込んで着たりはしない。
短いスカートが履きたければ最初から短いのを買ってくるし、
靴にだってラクガキしたりはしないのだ。
制限された中だから、それらが遊びになるのだ。
制限されてなければ、そんな事はする必要がないのだ。
俺は制服の無い都立高校に通っていたが、
その学校はわざわざ制服を買って着てくるヤツが多かった。
何故なら、カスタマイズした制服は私服校の特権であるし、
何よりも私服ほど面倒なものはないからだ。
この辺は大学生になれば痛いほどよくわかるだろう。
『何を着ても自由』というのは逆に面倒なのだ。
毎朝、『今日は何を着よう?』と悩む日々は時に苦痛になるのだ。
入学して最初の2週間はみんな頑張ってオシャレをしようとするが、
2週間を過ぎると『もうよくね?』とばかりにイモジャーを着てくるヤツが現れる。
(※イモジャー=ダサいジャージのこと)
そうなると、崩壊はあっという間だ。
みんなテキトーな服でラクをし始めるのだ。
(俺もネマキやイモジャー、ガソスタの制服で行った事がある)
まぁ、それらを踏まえて考えると、
優しく縛られる程度が最も楽しめるのではないかと思うのだ。
制服はあるけど、レパートリーがあってカスタムしてもいい、とか。
1年に3回ある終業式は私服で良い、とか。
縛るだけでは身動きが取れない。
身動きが取れなければ不満がつのる。
不満がつのるのは幸せとは言えない。
だからこそ、優しく縛るのだ。
手錠ではなく、タオルで縛るのだ。
ちょっと緩めに縛ってやるのだ。
ギチギチが好きな人は自分で縛ればいい。
おさげ髪に黒ブチでもいいじゃない。
軽く縛られて抜けようと思えば抜けられるのに、
「タスケテ〜。」っておどけて言えばいいじゃない。
そんな出来レースでふざけ合えばいいじゃない。
「悪い子だ。」ってオシリをペチンとやればいいじゃない。
「悪い子らないよぅ。」って言われればたまらないじゃない。
あんまりこういう事を言ってるとゆうなに怒られるからこの辺で。
2007/10/25
|