電車で座っている時、俺の目の前にバアさんが立つと、
俺はなんとなく路線図が見たくなるのだ。
『遠くて見えねぇなぁ』とばかりに目を細めつつ、
ドアの方に歩いて行って上に貼ってある路線図を見る。
昔は2.0あった視力が今は0.7しかない。
ホスト時代、店のブラックライトが強すぎたんじゃないかと思うのだ。
路線図を見るのは好きだ。
見ているだけでプチ脳内旅行気分になれる。
『この駅はこんな景色だったな』とか、
『ここに行った時にこんな事があったな』とか、
そんな思い出にも浸れる便利ツールだ。
そのうち、ドアのガラス越しに外の景色が見たくなる。
流れる景色を見ながら、ボーッと物思いに耽るのが好きなのだ。
そうしているうちに、そのうちケータイをイジりたくなってくる。
こういうコラムや新しい物語を書きたくなったり。
そうこうしてるうちに俺が座っていた席にバアさんが座っている。
うんうん。それでいい。
俺よりバアさんの方が下りるのが先だったりすると、
降りる際に「ありがとうございます。」なんてお礼を言われてしまう事もある。
その度にちょっとくすぐったいような気持ちになり、
『べっ、別にアンタに席を譲ったわけじゃないんだからねっ!
路線図が見たかっただけなんだから!勘違いしないでよねっ!』
なんて脳内でツンデレを展開してしまう。
実際は「あ、いえ。」なんて会釈してるんだけど。
『別に普通に席を譲ればいいじゃん』と思われるかもしれないが、
そうしないのにはいくつか理由がある。
・席を譲ったところで、「いえ、次で降りますんで。」とか言われると寒い。
・チャラそうなヤツが席を譲るのって『俺って優しいんだぜアピール』に見えて鬱陶しい。
・遠慮がちな方に席を譲ると逆に気を遣わせてしまったりする。
俺は路線図が見たいから席を立った。
座席に対する執着心は無いから戻ろうとしない。
立っていて外を眺めるのも好き。
空いた席にバアさんが座るかどうかは自由。
そんな判断をして欲しいものだ。
シャイボーイなんだから配慮してくんね?
お礼なんて言わないでくんね?
俺は路線図や景色を見たかったんだから。
むしろ、そのキッカケになったのはちょうど良かったんだから。
なんだろう、ツンデレというよりも奥ゆかしさだろうか。
恩着せがましくなるのがイヤだからこうするんだと思うのだ。
別に礼を言われたくてやるわけじゃない。
バアさんが10分立つ負担と、俺が10分立つ負担は違う。
自分を差し置いて公平に見ると、バアさんを座らせた方が効率が良い。
俺はいつもこんな風に、群れ全体として考えているんだと思う。
なんだろう、シミュレーションRPGの感覚だろうか。
自分もバアさんも自軍ユニットだと考えると、
回復エリアに置くのはどう考えてもバアさんユニット、みたいな。
俺はまだまだ体力ゲージが残ってるし。
例えば、この時に大地震が起きたりするかもしれない。
そうすると、双方の体力を温存しておいた方がいいわけだよね。
歩いて帰ったりするかもしれないし。
そしたら、体力ゲージが低いユニットは休ませとくわな。
そういう事なんだと思う。
なので、「このユニットは体力温存。」という程度にしか思ってない。
そこは恩を着せるとか、優しさとかじゃない。戦略だ。
そうだ。あくまでも戦略として俺は席を譲ってるんだ。
俺は戦略的に老人ユニットに回復エリアを空けただけだ。
老人ユニットはNPCであり、俺が動かせるわけじゃない。
(NPC=ノンプレイヤーキャラクター。プレイヤーが操作できないキャラ。)
だから、そこに収まるかどうかは老人ユニットの自由なのだ。
中には『老人扱いを受けた』とショックに感じる人もいる。
ありがたいけど、少し落ち込んでしまうようなカンジだろうか。
老人が自分の事を「年寄りだからねぇ。」と言う分には構わないが、
そうでない人が老人に対して年寄り扱いするのは良くない。
黒人同士が「ヘイ、ニガー」って自虐的なジョークで言ってもいいけど、
黒人じゃないヤツが「ヘイ、ニガー」と言ったら人種差別、みたいな。
あ、ちょっと違うか。
でも、だいたいそんなカンジ。
そして、席を譲るというのは、場合によっては半強制的なものになってしまう。
『席を譲るから座って下さい』も勝手な願望の押し付けであり、
そういうニュアンスが無くてもそのように受け取る人はいる。
その辺も考慮すればこそ、自由意思による選択をさせるべきだと思うのだ。
『譲るから座って』とは、自由意思を奪う命令にもなりうるのだ。
NPCに命令はできねぇっつってんだろうが。
群れとして全体を見ている俺は、自己犠牲も当然だと思ってたりする。
映画『インディペンデンス・デイ』のラストに出るオッサンの役回りとかね。
ああいう感覚はすごいよくわかる。
俺も同じ状況なら喜んであの役回りをやりたい。
最後に残ったユニット数が勝利評価に繋がるのだ。
1人の犠牲で群れの数十億人が助かるんだったら喜んでやるよね。
ひょっとして、こういうのって動物的な感覚なんだろうか。
こういう利他的行動って動物でも子育て行為などに見られるけど、
俺の場合も似たような感覚なのかもしれない。
群れ全体のユニットを子供のように愛でるプレイヤーの心境で、
時に自分を1ユニット=戦略におけるコマとしか見ない場合があるわけだ。
しかし、それは何も自分だけでなく、他人に対してもそうなる。
場合によっては、「おまえ1人の犠牲でみんなが助かるなら、それが最善じゃね?」となる。
その一面だけを見られれば、冷酷な人間と判断されてもしょうがないように思う。
まぁ、その辺はどう見られても構わないんだが。
こういう事を言ってると「神にでもなったつもりか!」とか思われたりするが、
それはとんでもない誤解で、誰しも少なからずこういう感覚はあって当然だと思っている。
そして、俺は神の視点で見てるんじゃなく、群れの1ユニットとして戦略を練っているのだ。
いわば、戦国時代における軍師の視点だ。
そういえば、戦国時代も軍師に対して「神にでもなったつもりか!」と言う武将はいたな。
そういうヤツに限って命令を無視して突撃して死ぬか、ピンチを軍師に救われるんだよな。
頼むからボンクラは黙って指示を待てと言いたい。
俺も世のため人のためなんて考えてるわけじゃなく、
俗称的利己主義な部分は当然ながら山のようにある。
他より優れていたいとか、自分だけラクしたいとか。
そういう煩悩の数は人並み以上に持ってると思う。
しかし、群れ全体を1つの同種同族とみなした上で、
種の保存を優先した心理が働く事が稀にあるという事だ。
それが『老人が目の前に立った時に席を空けるという行動』なわけだ。
「俺は自分を1ユニットと見て、それを動かしたいという欲求が出る。」
とでも説明すれば、まだ腑に落ちない人にも納得できるだろうか。
俺も自分が気持ち良くなるために行動してるわけだ。
世のため人のためじゃない。
自分の期待通りに事が運んだら気持ち良いというだけだ。
実にわかりやすいだろう?
俺というユニットの行動パターンは。
そして、これをこの場に書く理由はただ一つ。
オマエというユニットにこの情報を与えておきたいからだ。
これによって、オマエも自分を1ユニットとして見る可能性が上がったわけだ。
それが目的なんだ。
オマエというNPCの行動ロジックに少しだけ影響を与える。
弱いユニットを休ませるのは強いユニットの役目だと意識させる。
それによって少しだけ良い社会になるかもしれない。
今回はそんなコラムなわけだよ。
2008/06/07
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