俺のたわごと

ま、たわいのないことばっか書いてますけど暇なら見てね。
日々の考え事、昔の事などが書いてあります。

 569   誰が為に鐘は鳴る
 
『バカにもわかるようにモノを伝えられないヤツはバカ』
俺は昔からそう思っている。
 
1を言って10がわかる子はラクチンでいい。
1を言って1しかわからない子も多い。
「そもそも、1ってなに?」と聞く子もいる。
そういう子にもモノを伝えようと思うなら、説明が上手くなければならない。
 
 
会話をすることの主な目的は“伝えること”だ。
相手に伝わっていなければ、それはただの独り言でしかない。
“伝えるための会話”をしたいのなら、“伝えるための工夫”をするのが当然だ。
 
物事を伝えるために、俺は例え話を用いることが多い。
場合によっては、そのまま言うよりも、例え話の方が相手の呑み込み早いからだ。
 
『季節の一言』のコーナーなんかは“伝えるための会話”ではない。
だから、事細かに説明する必要も無い。
「察してね」というわけでもない。
「通ずる部分があったら嬉しいね」というレベルだ。
 
 
相手が『頭では理解していても、なんだかちょっと腑に落ちていない』ということはよくある。
そこで「いいから言われた通りにやりゃいいんだよ!」と強いるのは傲慢である。
 
多くの社会人はそれを呑み込まされ、考える事を放棄させられる。
『言われる前に、まずやってみる』なんてのが社訓にある会社なんかはその典型例だ。
そういう会社は社員を聞きわけの良い奴隷にするための教育を詰め込む。
社畜(=会社に飼われる家畜)という言葉の通りだ。
 
会社の中ではそれを呑み込む事が大人の振る舞いであるとされているから、
そこに疑問を抱いて、「おかしいでしょう!」と声を荒げる人も少ない。
「あいつ1人で何言っちゃってんの?和を乱したいの?」と白い目をされるからだ。
そうすると、会社全体が暗い雰囲気になり、飲み会はグチの巣窟になる。
 
 
相手が腑に落ちないと感じている時に、こちらが見事な例え話を用いると、
相手はそこで大いに感銘を受けて、「なるほど!わかりました、そうします!」となる。
単に詰め込まれるのと、感銘を受けた上で入れるのではモチベーションが大きく変わる。
 
結果として、見事な例え話が出来るということは、
相手にわかりやすく伝える事が出来るというだけでなく、
モチベーションまで上げてやる事が出来るという素晴らしい利点がある。
 
ドラクエで言うと、マヌーサ解いてやった上にテンションまで上げる、みたいなね。
 ↑
このように俺はよくドラクエに例えたりするけど、これは一部の人にしかわからない例えだ。
もちろん、わざと悪ふざけでやっている例え話であって、
本気で相手に伝えようとしてやっている例え話ではない。
 
これはあえて、「いや、ドラクエ知らんし。笑」と心の中でツッコませたいのもあるし、
ドラクエ好きな人には「あー、わかるわかる。笑」と喜ばせるためでもある。
いわば、俺なりの読者サービスのようなものだ。
 
 
わざと一部の人にしかわからないようなネタをやるお笑い芸人というのがいるが、
そういう人ってのも、あえてコア層向けに強い支持を受けようとしているわけだ。
「阿修羅面、怒りー!」とキン肉マンに出てくるアシュラマンのマネをする芸人がいても、
そのネタはキン肉マンのファンにしかわからないわけだ。
 
ただ、ここには新たなドラマも生まれる。
『キン肉マンはよく知らないけど、この人が言っているんだから面白そうだ』と思わせ、
その人がキン肉マンを読んでアシュラマンを知った時、そこにちょっとした感動が生まれる。
そこで、「あー、これかぁ!笑」と喜べるわけだ。
それによって、新たな仲間意識が生まれ、コア層への仲間入りを果たすわけだ。
 
 
あえて、伝わりづらい例え話をするというのは、
とんねるずの番組でやっている『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』にも似ている。
一部の人にはバカウケ、あまり知らない人もよくわからないが面白そうだと感じるのだ。
この話も10年後には「とんねるずの番組??なんのこっちゃ」となるだろう。
そもそも、あの番組を見ていない人にとっても、さっぱりわからないことになる。
 
 
1:1で会話をする時、伝わりづらい例え話をする事に意味は無い。
(あえて、悪ふざけでやっているのでなければ)
 
自分にしかわからないような言葉で説明するのは、伝える努力を辞めた人間のすることだ。
まぁ、世の中にはそういうダルくて面倒な人ってのも多く存在したりするのだが。
そういう人間は自分の家の庭でしか遊べない弱い子なのだが。
 
会話のレベルを下げる事が自分のレベルを下げる事にはならないのだが、
そのような人たちにとっては耐えがたいストレスになるらしい。哀れな小動物だ。
 
レベルが高い低い以前に、会話には「伝える/伝えない」と「伝わる/伝わらない」しかない。
『伝えようとしてるのに伝わらない』のであれば、『伝え方が下手』でしかない。
 
上手い例え話をするには、色んな物事を知っている必要があり、
また相手が知っている事柄の中からチョイスする必要が出てくる。
 
例え話がバンバン出来るようになると会話に面白みが生まれ、
その時間を共有する楽しみを得る事が出来るようになる。
 
 
それとは別に、日本には“察する文化”というのもある。
「イチから説明するのは無粋なので、察していただきたい」ということだ。
風情を重んじる以上、そこに余計な言葉など必要無いとするものだ。
 
日本庭園を眺めている時というのを例にとってみよう。
皆が穏やかな気持ちで、隅々まで手入れの行き届いた庭園を眺めている。
そんな風景を思い描いていただきたい。
 
その時、横にこんなヤツがいたらどうだろうか。
「ここからの角度がイイんだよね〜!ここから仰角25度であの松の木が入るじゃん!?」
 
おそらく、多くの日本人はこう思うだろう。
『うるせぇ。ちっと黙って見てろ。今は角度がどうだとか聞いてねぇんだよボケ。』と。
 
それが風情を重んじるということだ。
ここで必要なのは会話ではなく、風情に対する感性なのだ。
 
庭園建築を手がける人からすれば、そこにある法則なんかを見出すことも大事だろう。
しかし、ただ或る風情を重んじ、その景色を眺め浸りたい人にとって、理論は邪魔なのだ。
 
素晴らしい日本庭園を見て、「池の水はポンプ循環ですか?」と聞く必要は無いのだ。
それこそ、無粋すぎてウンザリしてしまう。(本当にポンプ循環していようと)
 
 
テレビ番組でタレントが料理を食べている時というのはこのようなカンジだ。
「噛むと肉汁がジュワッと口いっぱいに広がるんですね。そして、この風味!柔らかさ!」
これは視聴者にどのような料理かを伝えるために必要だから語るのだ。
 
テレビ番組でもなければ、美味しい料理を食べていても言葉はいらない。
それが予想以上に美味かったら目を丸くし、人によってはハニかむぐらいだ。
知り合いが一緒ならば、それを伝えるために「これ、すごく美味しいよ!」と言う程度。
 
つまり、伝える必要があるかないかで、言うべき内容が変わってくるのだ。
 
@伝える/伝えない
Aわかりやすく/わかりづらく
B感情を交えて/感情を交えずに
 
 
まぁ、わかりやすく伝えればそれだけで良いというものでもないんだけどね。
細かい言葉のニュアンスで、相手の捉え方とかも変わってくるし。
 
どんなトーンで、どんな口調で、どんなタイミングで、どんな方向性で、どんな角度で、
どのような言葉で伝えるかということは、同じ内容でも大きく変わってくる。
 
あれこれと工夫が出来るから面白いんだよな。
会話という言葉遊びは。
 
 
吉井和哉のソロアルバム『at the BLACK HOLE』『SIDE BY SIDE』という歌がある。
その中で、吉井和哉は見事な比喩表現を用いている。
 
歌詞の一部を引用しよう。
 
 
破れている 中身出てる
可愛い顔の BABY 君だって
糸の付いた針をくわえ
ふさいでやろう BABY SIDE BY SIDE
 
(中略)
 
破れている かなり深く
ここは十字に BABY SIDE BY SIDE
 
縫う ゆっくりと縫う 愛の上下
 
(中略)
 
そこ縫ってここ縫って
泣かないで泣かないで
まだ BABY 耐えるんだ
まだ頑丈じゃ 頑丈じゃない
 
(中略)
 
無理に笑うのよせ
 
 
これほど見事な表現はなかなか無い。
男女の絡みを縫い物に例え、相手の心の傷を埋める慈しみの気持ち。
 
作詞というのはこのようにあって欲しい。
語彙の少ない人間では、『会いたくて会いたくて震える』くらいしか書けない。
 
伝われば良いってもんじゃないってのは、まさにその辺のことなんだよね。
ごくごく普通の言葉なら、売り物にするだけの価値も無いわけで。
 
小室哲哉が、「Jポップが幼児性を強めたのは自分とつんく♂のせい」と語っていたが、
まさにそうなった後の幼稚歌詞の代表格が西野カナであり、湘南乃風であると思う。
 
湘南乃風『純恋歌』の歌詞の一部を引用しよう。
 
大親友の彼女の連れ おいしいパスタ作ったお前
家庭的な女がタイプの俺 一目惚れ 大貧民負けてマジ切れ
それ見て笑って楽しいねって優しい笑顔にまた癒されて ベタ惚れ
 
アホなヤンキーがモバゲー日記に書いた内容を晒してるようなもん。
安い言葉並べて、純恋歌(じゅんれんか)って。
純廉価の間違いじゃねぇのか。安過ぎてお釣りくんぞ。
 
語彙力もなければ、感情の機微を感じとる部分もクソもない。
もうくだらなすぎて時間を費やすに値しない。
 
トイレに連れて行かれて『今日のウンコ』などと『今日のわんこ』風に見せられてる気分。
むしろ、そっちの方がマシかもしれない。
せっかくだから、引用部分はウンコ色にしといた。
 
ウンコ歌詞を出した結果、「自分にも書けるかも」とウンコを量産するアホが増える。
ウンコしてぇなら、モバゲーかグリーかツイッターでひり出してりゃいい。
 
 
逆に、難しい表現をすれば高尚というわけでもない。
 
ブログなんかでわざわざ古い表現や難しい表現を使いたがる中二病患者も多い。
そういう人が使いたがる言葉の代表格に『刹那』という言葉がある。
 
変に何かの影響を受けて、それに染まりたがった結果、
自分の日記で『刹那』とか言い始めちゃうわけだ。
 
V系バンドもこの傾向が強い。
中二病アニメでもこの傾向が強い。
見かけたら、「あぁ…、イタイ子か…。」と思っていい。
 
オリジナルの世界観を作ろうとした結果、なんか高尚っぽく思わせようとする。
 ↓
難しい表現を使ったらいいんじゃね?と思いつく
 ↓
実際にやってみたら、なんかカッコイイような気がしてくる。
 ↓
同じレベルのアホがカッコイイと思い込む
 ↓
アホがマネして次のウンコをひり出す
 
 
この流れって、幼稚園の頃にもよくあったと思う。
 
コウキくん「俺の必殺技を見せてやる…!グレートサンダーアタックマシーン!」
(〜アタックで終われば技名っぽいのに長い方がカッコイイと勘違いして余計なの付けた)
 
ダイキくん「カキーン!だが、効かなかった!」
(自分も主役になりたいから負けたがらない)
 
コウキくん「なにぃ!?俺の必殺技が効かないとは…!」
(言いたいだけ)
 
ダイキくん「いくぞ!ファイナルファイヤースーパーアタック!」
(またも語呂が悪く、着地点を考えてないから戦いがムダに長引く)
 
 
 
世の中にはこのような幼児レベルの現象が数多く起きているということだ。
それに対して憤った人が、「会話のレベルを落としたくないから」と意地を張って、
「俺は高尚だから、わざわざ赤ちゃん言葉は使いたくない」などと伝える努力を怠り、
余計に会話が長引いて面倒な展開になるという悪循環もよくある。
 
 
西野カナや湘南乃風が実はすごくハイレベルなことを考えていて、
自分らのCDを売るためにあえて歌詞を幼児レベルまで落としてるんだとすれば、
それはそれで需要と供給のバランスをわかっているんだなぁと思う。
 
「等身大の自分を表現する事で、若い層のファンを取り込みました。」っつってな。
まさに、その辺の雑誌インタビューにありがちなキャッチコピーだ。
まぁ、普通に考えれば幼児レベルの言葉しか使えないだけなんだけど。
 
周りの人が、「うわっ、なんだこれヒデェな。笑」と思っていても、
「こういうのがバカどもに売れるなら、それはそれでいいや。煽っとこ。」となる。
それが営利の為だからだ。
会社にとっては営利が優先順位の第一だからね。
 
そういう場合ってのは、「伝えるための言葉」だけではなくて、
本音は別として、「アホを乗せるための言葉」という側面もあるわけだよね。
 
 
結局のところ、『その言葉は何のために吐くの?』ってのが一番大事なわけで。
 
例えば、安易な繋がりばっかり求めている中高生を相手に、
「そんなのは愛じゃねぇ!」とコラム形式でお説教をしたところで、
そもそも中高生はコラムなんて読む気にならなくて伝わらないわけだよ。
 
だから、俺の場合はそれを伝えるために物語にしてみたりもしたわけだよ。
小説なら、受け入れやすいと感じる子たちも多いわけだしね。
お説教コラムなんて進んで読みたがる子はそうそういないわけだし。
 
結局、じゃあその言葉は何のために吐いたのかといえば、
「安易な繋がりじゃ、ずっと苦しむだけだよ?」ってのが言いたいわけだよね。
 
とりあえずのお付き合いなんて、ファッション感覚で人付き合いしてちゃダメだと。
その辺を自分の感覚として持って欲しいなぁという願望から言葉を吐くわけだよね。
 
なんでその辺の感覚を持って欲しいのかといえば、人が好きだからだよね。
 
俺は『人の不幸は蜜の味』って言葉が大嫌いでね。
自分自身で首を絞めているのに、そこに気付かない哀れな人間が吐く言葉だからね。
他人の不幸を喜ぶ人間は、そういう自分の人間性のせいでロクな人生を歩まないから。
 
そういう哀れな人間が1人でも多くそこに気付いてそこから逃れれば、
少なくともそいつの周りは少し良好なコミュニケーションが取れるようになると思うんだ。
 
それが俺に直接は影響が無くとも、群れ全体として良い方向にいけばいい。
広い目で見れば、群れ全体としての質が上がる事が望みなのかもしれない。
 
今の段階では、それが良いことであると思っている。
だから、そうしているだけだ。
 
 
人類が行き着く先には効率主義の結果としての“不自由のない生活”があるんだろう。
その段階になったら、俺の考えも少しは変わると思う。
 
その時代には、人々も食う為に働かなくても良くなっているだろうし、
『最小不幸社会』なんてのも死語になっていると思う。
 
そうなったら、今度は傷付け合うことに美徳を感じるかもしれない。
“不自由のない生活という不自由”が始まるからだ。
 
いつだって、人は無いものねだりをするものだ。
 
 
そのうち、頭にクスリを打って夢の中で生活するのが幸せな人生になるかもしれないな。
 
井上陽水も歌ってたよね。
『夢の中へ』で。
 
 
人生は脳内麻薬を出すためにやっていることがあまりにも多いもんねぇ。
 
悩んで悩んで答えに辿り着いた時にドバドバ出る爽快感の脳内麻薬。
仕事帰りに一杯のビールを流し込んだ時にドバドバ出る爽快感の脳内麻薬。
 
気になる異性と過ごしている時にドバドバ出るときめきの脳内麻薬。
ジェットコースターで無重力状態になった時にドバドバ出る興奮の脳内麻薬。
 
親しい人と過ごしている時にドバドバ出る安らぎの脳内麻薬。
何かと戦っている時にドバドバ出る興奮の脳内麻薬。
 
 
 
 
君は何のために言葉を吐く?
 
 
そこに自分の主観からなる正義はあるかい。
 
その正義は本当に正義かい。
 
その正義が覆る瞬間はありそうかい。
 
 
その言葉に価値はあるのかい。
 
誰にとってのどんな価値があるんだい。
 
少なくとも君にとって価値はあるかい。
 
 
たまには顧みてはどうだい。
 
君の辿った足跡は何かの形を成しているかい。
 
砂浜についた足跡のようにいつしか消え去ってしまったかい。
 
 
家族は元気かい。
 
君は元気かい。
 
 
本当に元気かい。
 
 
 
2011/07/08


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