俺のたわごと

ま、たわいのないことばっか書いてますけど暇なら見てね。
日々の考え事、昔の事などが書いてあります。

 513   電車の座席を空けるという行為。
 
電車で座っている時、俺の目の前にバアさんが立つと、
俺はなんとなく路線図が見たくなるのだ。
 
『遠くて見えねぇなぁ』とばかりに目を細めつつ、
ドアの方に歩いて行って上に貼ってある路線図を見る。
 
昔は2.0あった視力が今は0.7しかない。
ホスト時代、店のブラックライトが強すぎたんじゃないかと思うのだ。
 
路線図を見るのは好きだ。
見ているだけでプチ脳内旅行気分になれる。
『この駅はこんな景色だったな』とか、
『ここに行った時にこんな事があったな』とか、
そんな思い出にも浸れる便利ツールだ。
 
そのうち、ドアのガラス越しに外の景色が見たくなる。
流れる景色を見ながら、ボーッと物思いに耽るのが好きなのだ。
 
そうしているうちに、そのうちケータイをイジりたくなってくる。
こういうコラムや新しい物語を書きたくなったり。
 
そうこうしてるうちに俺が座っていた席にバアさんが座っている。
うんうん。それでいい。
 
俺よりバアさんの方が下りるのが先だったりすると、
降りる際に「ありがとうございます。」なんてお礼を言われてしまう事もある。
 
その度にちょっとくすぐったいような気持ちになり、
『べっ、別にアンタに席を譲ったわけじゃないんだからねっ!
 路線図が見たかっただけなんだから!勘違いしないでよねっ!』
なんて脳内でツンデレを展開してしまう。
実際は「あ、いえ。」なんて会釈してるんだけど。
 
『別に普通に席を譲ればいいじゃん』と思われるかもしれないが、
そうしないのにはいくつか理由がある。
・席を譲ったところで、「いえ、次で降りますんで。」とか言われると寒い。
・チャラそうなヤツが席を譲るのって『俺って優しいんだぜアピール』に見えて鬱陶しい。
・遠慮がちな方に席を譲ると逆に気を遣わせてしまったりする。
 
俺は路線図が見たいから席を立った。
座席に対する執着心は無いから戻ろうとしない。
立っていて外を眺めるのも好き。
空いた席にバアさんが座るかどうかは自由。
 
そんな判断をして欲しいものだ。
シャイボーイなんだから配慮してくんね?
お礼なんて言わないでくんね?
 
俺は路線図や景色を見たかったんだから。
むしろ、そのキッカケになったのはちょうど良かったんだから。
 
なんだろう、ツンデレというよりも奥ゆかしさだろうか。
恩着せがましくなるのがイヤだからこうするんだと思うのだ。
別に礼を言われたくてやるわけじゃない。
 
バアさんが10分立つ負担と、俺が10分立つ負担は違う。
自分を差し置いて公平に見ると、バアさんを座らせた方が効率が良い。
俺はいつもこんな風に、群れ全体として考えているんだと思う。
 
なんだろう、シミュレーションRPGの感覚だろうか。
自分もバアさんも自軍ユニットだと考えると、
回復エリアに置くのはどう考えてもバアさんユニット、みたいな。
俺はまだまだ体力ゲージが残ってるし。
 
例えば、この時に大地震が起きたりするかもしれない。
そうすると、双方の体力を温存しておいた方がいいわけだよね。
歩いて帰ったりするかもしれないし。
 
そしたら、体力ゲージが低いユニットは休ませとくわな。
そういう事なんだと思う。
 
なので、「このユニットは体力温存。」という程度にしか思ってない。
そこは恩を着せるとか、優しさとかじゃない。戦略だ。
 
そうだ。あくまでも戦略として俺は席を譲ってるんだ。
俺は戦略的に老人ユニットに回復エリアを空けただけだ。
老人ユニットはNPCであり、俺が動かせるわけじゃない。
(NPC=ノンプレイヤーキャラクター。プレイヤーが操作できないキャラ。)
だから、そこに収まるかどうかは老人ユニットの自由なのだ。
 
中には『老人扱いを受けた』とショックに感じる人もいる。
ありがたいけど、少し落ち込んでしまうようなカンジだろうか。
 
老人が自分の事を「年寄りだからねぇ。」と言う分には構わないが、
そうでない人が老人に対して年寄り扱いするのは良くない。
 
黒人同士が「ヘイ、ニガー」って自虐的なジョークで言ってもいいけど、
黒人じゃないヤツが「ヘイ、ニガー」と言ったら人種差別、みたいな。
 
あ、ちょっと違うか。
でも、だいたいそんなカンジ。
 
そして、席を譲るというのは、場合によっては半強制的なものになってしまう。
『席を譲るから座って下さい』も勝手な願望の押し付けであり、
そういうニュアンスが無くてもそのように受け取る人はいる。
 
その辺も考慮すればこそ、自由意思による選択をさせるべきだと思うのだ。
『譲るから座って』とは、自由意思を奪う命令にもなりうるのだ。
NPCに命令はできねぇっつってんだろうが。
 
群れとして全体を見ている俺は、自己犠牲も当然だと思ってたりする。
映画『インディペンデンス・デイ』のラストに出るオッサンの役回りとかね。
ああいう感覚はすごいよくわかる。
俺も同じ状況なら喜んであの役回りをやりたい。
 
最後に残ったユニット数が勝利評価に繋がるのだ。
1人の犠牲で群れの数十億人が助かるんだったら喜んでやるよね。
 
ひょっとして、こういうのって動物的な感覚なんだろうか。
こういう利他的行動って動物でも子育て行為などに見られるけど、
俺の場合も似たような感覚なのかもしれない。
 
群れ全体のユニットを子供のように愛でるプレイヤーの心境で、
時に自分を1ユニット=戦略におけるコマとしか見ない場合があるわけだ。
 
しかし、それは何も自分だけでなく、他人に対してもそうなる。
場合によっては、「おまえ1人の犠牲でみんなが助かるなら、それが最善じゃね?」となる。
その一面だけを見られれば、冷酷な人間と判断されてもしょうがないように思う。
まぁ、その辺はどう見られても構わないんだが。
 
こういう事を言ってると「神にでもなったつもりか!」とか思われたりするが、
それはとんでもない誤解で、誰しも少なからずこういう感覚はあって当然だと思っている。
そして、俺は神の視点で見てるんじゃなく、群れの1ユニットとして戦略を練っているのだ。
いわば、戦国時代における軍師の視点だ。
 
そういえば、戦国時代も軍師に対して「神にでもなったつもりか!」と言う武将はいたな。
そういうヤツに限って命令を無視して突撃して死ぬか、ピンチを軍師に救われるんだよな。
頼むからボンクラは黙って指示を待てと言いたい。
 
俺も世のため人のためなんて考えてるわけじゃなく、
俗称的利己主義な部分は当然ながら山のようにある。
他より優れていたいとか、自分だけラクしたいとか。
そういう煩悩の数は人並み以上に持ってると思う。
 
しかし、群れ全体を1つの同種同族とみなした上で、
種の保存を優先した心理が働く事が稀にあるという事だ。
それが『老人が目の前に立った時に席を空けるという行動』なわけだ。
 
「俺は自分を1ユニットと見て、それを動かしたいという欲求が出る。」
とでも説明すれば、まだ腑に落ちない人にも納得できるだろうか。
 
俺も自分が気持ち良くなるために行動してるわけだ。
世のため人のためじゃない。
自分の期待通りに事が運んだら気持ち良いというだけだ。
 
実にわかりやすいだろう?
俺というユニットの行動パターンは。
 
 
そして、これをこの場に書く理由はただ一つ。
オマエというユニットにこの情報を与えておきたいからだ。
これによって、オマエも自分を1ユニットとして見る可能性が上がったわけだ。
 
それが目的なんだ。
 
オマエというNPCの行動ロジックに少しだけ影響を与える。
弱いユニットを休ませるのは強いユニットの役目だと意識させる。
それによって少しだけ良い社会になるかもしれない。
 
今回はそんなコラムなわけだよ。
 
 
2008/06/07


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