人はいつか死ぬ。
早いか遅いかの違いで、いずれは全員死ぬ。
そうとわかっていても、身内が死ぬというのは辛いものだ。
ましてや、自分と会った直後に死なれたり、自分の所に来ている途中に死なれたりしたら、
その責任を全て自分に背負いこんでしまう人もいるだろう。
だが、「あの時、自分がこうしていたら」なんて言い始めたらキリがない。
その人の死はそれ以前の全ての行動の結果がそれだから、
直前の出来事だけが死に関わるなんて事は無い。
逆に、もっと前に死んでる可能性だってあったんだ。
むしろ、自分と出会った事でその日まで死期を伸ばせていたのかもしれない。
それは誰にもわからない。
神様だったら、背負い込んでいいかもしれないが、
あいにく神様もいないから誰のせいでもないし、
誰かのせいにしても生き返るわけじゃない。
受け止めたくない現実は消化できるようになるまで受け止めなくても良い。
いずれ、自然と受け入れている自分に気付くかもしれないし、
何かのキッカケで受け入れる事になるかもしれない。
それまで、ある程度の時間は必要だろう。
嘆いても悔やんでも死んだ人間は生き返ったりはしない。
その日に足踏みしていても、何の意味もないし、何の供養にもならない。
思いっきり悲しんで泣くしか出来ない。
泣いてくれる人がいる人生は良いものだ。
それこそ供養になるというものだろう。
どうにもならない現実の壁に向かって泣き叫んで、
その声が消えて行く事で、少しずつ昇華されたりもするんだろう。
多分、200年後には俺の事を知ってる人もそんなにいないと思う。
まぁ、それでもいいんじゃないか。
会った事もない子孫たちに墓参りに来て欲しいとも思わない。
俺も四代以上前の人は名前も知らない。
墓には行った事があるかもしれない。
それもあまりよくわからない。
俺はその人の事をちっとも知らないけど、
俺の中にもその人がわずかに入ってるんだろう。
もっともっともっともっとさかのぼって行けば、
人間なんてわずかな人数しかいなかったんだろう。
そして、その人間というモノになる前は小動物だったんだろうし、
もっともっと前は微生物か何かだったんだろう。
そういうのが出来る前はただの有機物だったりしたんだろう。
原始地球の雷がバチバチ鳴ってる時に沸いた程度の存在だったんだろう。
もっと前は星になる前のガス雲だったんだろう。
もっと前は太陽系を含めたデカイ星だったんだろう。
もっと前はもっと大きな塊だったんだろう。
そういう宇宙の歴史すらも、一瞬の火花の中で行われてるのかもしれない。
毎日のように生まれて死ぬ人間もまた、地球の中の火花の一つなんだろう。
色とりどりの火花を眺めて、他の火花も光って消える。
明るく光るだけが火花じゃないから、
たまには落ち込んで塞ぎ込んだりしてもいいんじゃないかな。
2009/10/03
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